ラーゲリとは収容所のことです。
この物語は、太平洋戦争が終結後、突如参戦してきたソビエト連邦の軍によって、満州や樺太にいた日本軍の兵士や民間人を戦犯として強制連行されました。
いわゆるシベリア抑留です。
営倉で襲った南京虫とは
南京虫はトコジラミ科の一種です。
名前の由来は、中国から来た小さい物を「南京~」と呼んでいたことが始まりのようです。
例えば南京錠など。
この虫は不衛生な場所を好み、家具や衣類に忍び込みます。
そして人から血を吸います。
そして吸われると非常に痒いようです。
夜行性でもあるので、あんな狭い営倉に入れられたら、一晩中苦しいでしょうね。
シベリア抑留の実態
この抑留生活は過酷を極めたもので、冬はマイナス30度を下回るような厳しい環境下で、長い人では10年以上にわたり、強制労働させられていました。
抑留者は実に57万5000人に上ると言われています。
食事は一日で黒パン一斤と少量の粥で、栄養失調や病気で亡くなる人も少なくありませんでした。
その数は5万5000人以上になります。
この物語は、山本幡男という一等兵の実話に基づいて作成されており、過酷なシベリア生活の中でも収容所の人々に生きる希望を与えた話です。
シベリア抑留生活のはじまり
山本旗男(二宮和也)とその家族は、満州で生活をしていました。
しかし、ソ連の軍事介入により、満州を攻撃され、山本は崩れた建物の下敷きになり、家族とは離れ離れになってしまいます。
その時に山本は、妻、モミジ(北川景子)と「日本で落ち合おう」と言い残し、山本は日本に必ず戻ることを誓いました。
その後山本は、シベリア鉄道に乗せられ、ソ連のはるか西の収容所(ラーゲリ)に連行されます。
そこで出会ったのが、松田研三(松坂桃李)、元軍曹の相沢光男(桐谷健太)でした。
松田は山本のことは、いつも気になる存在になっています。
相沢は山本たちをしょせん一等兵としか見てなく、非常に乱暴者です。
山本はロシア文学に精通しており、通訳として力を発揮していきます。
しかし、その通訳ができることによって、日本人からはロシアのスパイではないかと疑う者もいました。
特に相沢は山本を疑い、殴って流血させましたが、山本はスパイ行為はを完全に否定していました。
厳しい労働を経て、抑留者たちは日本に帰ることを夢見ていました。
その後2年の月日が流れ、抑留者は再びシベリア鉄道に乗せられ移動していきます。
しかし、名前を呼ばれたものは途中で下車され、戦犯扱いされたものは、再び収容所に入れられました。
山本は諜報員扱いされ、25年の強制労働を言い渡されました。
他、松田や相沢も同じ扱いを受け、収容所に収監されています。
抑留者たちの絆
その収容所では新たに、新谷建男(中島健人)と知り合いになります。
新谷は、足が悪く軍人ではありませんでしたが、樺太で漁師をしていて捕らえられたようでした。
新谷は読み書きがでなかったのですが、博識な山本に文字や俳句を教わります。
山本は他の人たちにも教えて日本の文化を伝えていきます。
それにより、収容所内の抑留者たちは、山本に対しての信頼が厚くなっていきました。
しかしそこでは共産主義を推奨しようと働きかけられますが、それを否定すると暴行を加えられました。
それでもなんとか耐え忍んで7年の月日が経ちました。
食事は相変わらず、パンとスープだけで、飢えや病気で亡くなる人が後を絶ちませんでした。
またいつまでも出られないことに業を煮やし、脱走を試みる人もいました。
しかし監視の目は厳しく、脱走をするものは容赦なく射殺されました。
その中でも、山本が布で作ったボールは取られずに残っていたので、それを元に野球をやり始めました。
収容所に収監されている人々に笑顔が戻り、仲間としての連帯感がでてきました。
しかし、ソ連の幹部に見つかり、野球を途中で強制的に止めさせられます。
山本はソ連兵に対して、野球をやらせてくれるように懇願します。
しかし山本はそれを反逆行為として取られ、また独房に入れられてしまいます。
ここ最近。脱走兵が多いことで荷物の検査が厳しくなります。
折角書いた俳句なども没収されてしまいます。
新谷はくやしがりますが、山本は覚えたことは誰もとることができないと新谷を諭します。
このころになると、日本の家族への手紙を送ることをゆるされるようになります。
多くの抑留された人々は、手紙が来るたびに喜びが溢れていましたが、相沢の奥さんは空襲でお腹の子ともども亡くなったようでした。
相沢は絶望して収容所を飛び出し、塀を飛び越えて撃たれようとしました。
しかし、山本は身を挺して止めます、「生きるんです。生きていれば希望はある」と強く説得しました。
相沢は涙ながらに堪えます。
山本の異変
その後、山本は体調を崩して倒れます。
病院で入院しますが、大した治療が施されず、中耳炎との診断でした。
しかし、何回か倒れることで、中耳炎でないことは明らかでした。
そこで、松田を中心に収監されている人たちで、山本を大きな病院で診てもらうことを条件にして、作業をボイコットします。
困り果てたソ連幹部は、条件を飲みました。
山本は大病院で診察され、結果を相沢が聞きに行きました。
結果は喉の癌で手の施しようがないとのことでした。
相沢は涙目で、「これでも絶望じゃないのか。」と問うと、山本は涙ながらに「絶望ですよ、放っておいてください」と力なく答えます。
相沢は大声で「それでも生きろ」と励まします。
その後、以前山本の上官だった原幸彦(安田顕)が病室を訪れ、遺書を書くように促がしました。
山本は黙って頷き、家族宛てに遺書を書き上げました。
その後、山本は息を引き取りました。
遺書は、手荷物検査からなんとか躱していましたが、ついに見つかり没収されてしまいます。
しかし、新谷は記憶の中は奪われることがないという、山本の教えを思い出し、何人かで遺書を分け合って覚えました。
そしてソ連との国交正常化が結ばれ、漸く抑留兵は日本に帰ることができました。
4つの遺書
山本の遺書を4つに分け、原、新谷、松田、相沢でそれぞれ分担して記憶し、日本の家族に伝えることを約束しました。
そして約束通りに、それぞれ山本家に訪れ、遺書を伝えます。
そして家族は山本の想いを継ぎ、強く生きることを胸に、しかと受け止めました。
続いて遺書の内容をお伝えしたいと思います。
一
山本幡男の遣家族のもの達よ!
到頭ハバロフスクの病院の一隅で遺書を書かねばならなくなった。
鉛筆を取るのも涙。書き綴るのも涙。どうしてまともにこの書が綴れよう!
病床生活永くして一年三か月にわたり、衰弱甚だしきを以て、意のごとく筆も進ばず、思ったことの百分の一も書き現わせないのが何よりも残念。
皆さんに対する私のこの限りない、無量の愛情と哀れみのこころを一体どうして筆で現すことができようか?
唯無言の涙、抱擁、握手によって辛うじてその一部を現し得るにすぎないであろうが、ここは日本を去る数千秒、どうしてそれができようぞ。
唯一つ。何よりもあなた方にお願ひしたいのは、私の死によって決して悲観することなく、落胆することなく意気ますます旺盛に振起して、病気せざるやう、怪我をしないやう、細心の注意を健康に払って、丈夫に生き永らへてもらいたい、ということである。
健康第一。私は身を以てしみじみとこのことを感じました。決して無理をしてはいけない。少しでも可笑しいと思ったら、体の具合をよく調べて予め、病気を防止すること。
帰国して皆さんを幾分でも幸福にさせたいと、そればかりを念頭に十年の歳月を辛抱してきたが、そえが実現できないのが残念、無念。この上は唯皆さんの健康と幸福とをお祈りしながら、寂光浄土へ行くより他に仕方がない。
私の希みは唯一つ。子供たちが立派に成長して、社会のためにもなり、文化の進展にも役立ち、そして一家の生活を少しづつでも幸福にしていくといふこと。どうか皆さん幸福に暮らして下さい。これこそが、この私の最大の重要な遺言です。
二
お母さまへ
お母さま!
何といふ私は親不孝だったでせう。あれだけ小さい時からお母さんに(やはりお母さんと呼びませう)ご苦労をかけながら、お母さんの期待には何一つ副うことなく、一家の生活がかつかつやっとといふところで何時もお母さんに心配をかけ、親不孝を重ねてきたこの私は何という罰当たりでせう。
お母さんどうぞ存分この私を怒って、叱り飛ばして下さい。
この度の私の重病も私はむしろ親不孝の罰だ、業の報ひだとさへ思っている位です。誰を恨むべきすべもありません。皆自分の罪を自分で償うだけなんです。
だからお母さん、私はここで死ぬことをさほど悲しくは思ひませぬ。唯一つ、晩年のお母さんにせめてわずかでも本当に親孝行したいーーーと思ひ、楽しんでいた私の希望が空しくなったことを残念、無念に思っているだけです。
お母さんがどれだけこの私を待って、待っていなさることか。来る手紙ごとにそのやさしいお心もちがひしひしと胸に沁みこんで居てもたってもをれないほどの悲しみを胸に覚えたものです。
唯の一目でもいいから、お母さんに会って死にたかった。お母さんと一言、二言交わすだけで、どれだけ私は満足したことでせう。十年の永い月日を私と会ふ日を唯一の楽しみに生きてこられたおかあさんに、先立って逝く私の不幸を、どうかお母さん許して下さい。
お父さんと、弟の勉と、妹のさき子と四人で、あの世に会ふ日が来れば、お母さんのことを話し合ひ、お母さんが、安らかな成仏を遂げられる日を共に待つことにいたしませう。
あの世では、お母さんにきっと楽に生きていただかうと思っています。
しかし、お母さん、私が亡くなっても、決して悲観せず、決して涙に溺れることなく、雄々しく生きて下さい。だって貴女は別れて以来十年間あらゆる辛苦と闘ってこられたのです。その勇気を以て、どうか孫たちの成長のためにもう十年間闘っていただいたいのです。
その後は少し楽にもなりませう。私が、この幡雄が本当に可愛いと思われるなら、どうか、私の子供達の、即ちお母さんの孫田達の成人のために倍旧の努力を以て生きて戴きたいのです。
やさしい、不運な、かあいそうなお母さん。さようなら。どれだけお母さんに逢いたかったことか!
しかし、感傷はもう禁物。強く強く、あくまでも強く、モミジに協力して子供たちを(貴女の孫たちを)成長させて下さい。お願いします。
三
妻へ
妻よ! よくやった 実によくやった
夢にだに思はなかったくらい、君はこの十年間よく辛抱して戦ひつづけてきた。
これはもう決して過言ではなく、殊勲甲だ。超人的な仕事だ。失礼だが、とてもこんなにまでできまいと思っていたこの私が恥ずかしくなってきた。四人の子供と母とを養って来ただけでなく、大学、高等学校、中学校それぞれ教育していったその辛苦。
郷里から松江へ、松江から大宮へと、孟母の三遷の如く、お前はよくまあ転々と生活再建のために、子供の教育の為に運命を切り拓いてきたものだ!
その君を幸福にしてやるために生れ代ったように立派な夫になるために、帰国の日をどれだけ私は待ち焦がれてきたことか!
一目でいい、君に会って胸いっぱいの感謝の言葉をかけたかった!万葉の烈女にもまさる君の奮闘を讃えたかった!
ああ、しかし到頭君と死に別れてゆく日が来た。私は、だが、君の意思と力とに信頼して、死後の家庭のことは、さほどまでに心配してはいない。今まで通り子供たちを良く育てて呉れといふ一言に尽きる。子供たちは私の身代わりだ。子供たちは親よりもどんどん偉くなってゆくだろう。
君は不幸続きだったが、之からは幸福な日も来るだろう。どうかそうあって欲しいと祈っている。子供達を楽しみに、辛抱して働いて呉れ。知人、友人等は決して一家のことを見捨てないであろう。君と子供等の将来の幸福を思へば、私は満足して死ねる。
雄々しく生きて、生き抜いて、私の意志を生かしてくれ。
二十二ヵ年にわたる夫婦生活であったが、私は君の愛情と刻苦奮闘と意志のたくましさ、旺盛なる生活力に唯々感激し、感謝し、信頼し、実に良き妻を持ったといふ喜びに溢れている。さよなら。
四
子供等へ。
厚生
誠之
はるか
君たちに会へずに死ぬことが一番悲しい。
成長した姿が写真ではなく、実際に一目みたかった。お母さんも、モミジよりも、私の夢には君たちの姿が多く現れた。それも幼かった日の姿で・・・ああなんといふ可愛い子供の時代!
君たちを幸福にするために、一日も早く帰国したいと思っていたが、到頭永久に別れなければならなくなったことは、何といっても残念だ。第一、君たちに対してまことに済まないと思ふ。
さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きていくのだが、君たちはどんなに辛い日があらうとも、光輝ある日本民族の一人として生まれたことに感謝することを忘れてはならぬ。
日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋の優れたる道義の文化ーー人道主義を以て世界文化再建設に寄与しえる唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。
また君たちはどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な理想を忘れてはならぬ。偏くつで驕放な思想に迷ってはならぬ。
どこまでも真面目な、人道に基づく自由、博愛、幸福、正義の道を歩んで呉。最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友達と交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を片時も忘れてはならぬぞ。
人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。但し無意味な虚栄はよせ。人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無いーーーといふ覚悟で、強い能力のある人間になれ!自分を鍛えて行け!精神も肉体を鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。自覚ある立派な人間になれ。
四人の子供たちよ。
お互いに団結し、協力せよ!特に顕一は、一番才能に恵まれているから、長男ではあるし、三人の弟妹をよく指導してくれよ。
自分の才能に自惚れてはいけない。学と心理の道においては、徹頭徹尾敬虔でなくてはならぬ。立身出世など、どうでもいい。自分で自分を偉くすれば、君たちが博士や大臣を求めなくても、博士や大臣の方が君らの方へやってくることは必定だ。要は自己完成!
しかし浮世の生活のためには、致方なしである程度打算や功利もやむを得ない。度を越してはいかぬぞ。最後にかつものは道義だそ。
君たちが立派に成長していくであろうことを思ひつつ、私は満足して死んでゆく。どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。
以上が家族に送られた遺書ですが、これを4人で暗記して書いたというのですから、すごい記憶力ですね。
そして、山本幡男という人の人徳の大きさが伺えます。
癌でソ連の病院で亡くなり、葬儀も行われず寂しい最後ではありましたが、この遺書の中で子供たちにしきりに送った言葉では、何より道義が大切だと言っていました。
正にその道義を貫いたからこそ、今でも映画にもなり後世に伝えられたのだと思います。
山本の死因は
山本は癌で亡くなりましたが、正式な病名は喉頭癌肉腫です。
のどの癌ですが主に喉ぼとけ付近にできて、やはり声がれ等で発見できるようです。
現在では早期発見では5年生存率が80%以上ということで高くなってきていますが、シベリアの抑留中では、大した病院で診察されていないことを考えると、発見が遅れたために末期になってしまったということが考えられます。
まとめ
今回はラーゲリより愛を込めてを紹介しました。
まだまだ世界では戦争をしてる国もありますが、戦争は勝っても負けても悲しみしか生まないと思っています。
戦争はその国のリーダーたちの大義や利益で戦争をはじめて、結局傷つくのは民間人や兵士の家族です。
日本もこれから憲法改正に進むと思いますが、政府には二度と戦争を起こさないように舵取をしていただきたいと願います。
今日はこれまでです。 ではまた。


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